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僕を原色好きにしてくれた、まめじいちゃんと最期の別れ

Me MyBro and my grandfather 01

「WWDC 2018」が始まる1時間前、僕は母方の祖父を亡くした。自宅で看病していた息子(僕の叔父にあたる)に見守られながら静かに息を引き取った。88歳だった。

3日の夕方に母親から「持ったとしてもあと1、2日ぐらいらしい」と言われ、その日の夜に向かった。遠いはずの弟も向かっているとのことで、それぞれがおじいちゃんの家に集合することに。

その時会ったおじいちゃんは驚くほど痩せ細っていた。約2週間ほど前に我が家で娘の1歳の誕生日を祝った後に会った時は動きづらくなっていたようだが、アイスティーも飲み、ケーキも多少ではあるが食べていた。

会話もこれまで通り変わらずでき、認知症が進行していたと聞いていたが、しっかりと僕を名前で呼び、認識してくれていた。娘のことも覚えてくれていた。

あの時のおじいちゃんとは別人だった。ガリガリで、呼吸器を取り付けられ、寝たきりだった。身体を触ると筋肉と脂肪がほぼ全て削ぎ落とされ、皮と骨の状態だった。

でも辛うじて呼吸はしていた。仰向けで顔は左を向いていたので、右目だけ辛うじて開いているように見えた。

僕は行く直前にコンビニに立ち寄り、2週間前に撮影した僕と弟と写った写真や娘の誕生日の写真などを数枚印刷していた。冒頭の写真はそれで、実は帰り際に「もしかしたら元気なおじいちゃんはもう会えないかもしれない」という考えが脳裏をよぎり、撮影したものだった。

大きい声でその写真を見せつつ説明し、他の写真も解説した。あれこれ他愛もない話をべらべらと一方的に話した後、おじいちゃんにダメ元で「ちょっと僕は火曜日の深夜から大きな仕事があるんだよね、だからもうちょっと頑張ってよ」と笑いながら言ってみた。

おじいちゃんはギリギリまで踏ん張ってくれた。亡くなった連絡をもらったのはその6時間後。父親が仕事中の僕を気遣ってくれて明け方に連絡してくれたようだ。

4日経った本日9日、最期の見送りをした。

おじいちゃんはとにかくアクティブでチャレンジ精神がある人だった。僕の覚えている限りでは70歳までバリバリサッカーをプレイしていて、80歳前後で合気道の段を取っていたはず。ハッキリ言ってアクティブすぎて意味不明だ

もっと若い頃は起業もし、僕が小さかった頃はよく公園で一緒にサッカーをしていた。僕が中学生の頃は腕相撲で勝てなかったほど、筋力があった。

見た目がまめのような頭だったので、まめじいちゃんと呼んでいた。おじいちゃん本人も気に入っていて、「まめじぃ」と名乗っていた。

僕は、おじいちゃんの影響で原色好きになった。中学生の頃、とにかく黒っぽい服ばかりを着ていた時代に「明るい色のものを着ろ。明るい色を着ると人生が明るくなるぞ」と言われたことを、その時から頑なに信じて生きている。

今ではもちろん黒い服も持っているが、黒い服には派手な靴やアクセサリを合わせていることが多い。赤、黄色、青など原色寄りのカラーが好きになったのは、紛れもなくおじいちゃんの影響だ。gori.meのロゴも、赤と黄色がアクセントだ。

僕はとても明るい人生を歩むことができていると思う。これからも明るい服を着て、自分だけではなく、家族、友人、仲間の人生が明るくなるように過ごしていきたい。

おじいちゃん、今までありがとう!また腕相撲しようね。

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執筆者g.O.R.i
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